昭和48年04月21日 朝の御理解
御理解 第86節
「女は世界の田地である。世界の田地を肥しておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。」
女というものは「オナゴ」というて業が深い。と言う様な考え方というのは、これは日本だけではない様です。何処へ行っても同じ様なことをいっておる。お釈迦様の世界、お釈迦様の時代から、やはり女は汚れたものと言った様な見方が強い。そのところを教祖様は見事に女は家の家老じゃと、又は世界の田地じゃとまでこう高く評価しておられる。男もなければ女もない。皆んな神の氏子であるとして大事にしておられる。
一視同仁である。しかも田地とこういう。勿論田地が良うなからなければ良いものが生まれないが、その田地ばかりがよかっても、やはり種がようなからなければ良かろう筈がありません。そこで私は、そういう教祖の女性に対するところの感じ方と言った様なものをこれはだから、男も女も善うなからなければと言う事に頂かねばいけないね。男も女もようなからねば世界の本当の繁栄、地球上に潜む人間の本当の幸というものは男も女もようなければならない。
いうならば、女がようなければ家は保てぬというが、人間氏子がようなければ世界が保てぬというが、人間氏子がようなければ、いわゆる世界が保てぬ。そんな風に大きくもってなければならんと思うですね。家老がどんなによかっても殿様がやはり馬鹿な殿様であってはいけない様に。やはり殿様もよい、家老もよい、他の下々の家来達もよいというのであっていわゆるその城が保てる、家が保てるというが。
今日御理解で大きくいうならば、世界が保てぬと言う事になる。それを目指して頂いているのが、和賀心時代を創ろうとこう言われる。世界中にその和賀心ね。これは男も女も和賀心。そこには男も女もいわゆる、人間氏子が良うなからなければ世界が保てぬ。いや、でなからなければ、天地の親神様の御安心がいかぬと、言う事にまでなって來るのではないですかね。
先日久留米の佐田さんところの五十日祭がございましたから。私が奉仕さして頂きました。あちらで初めてああいう御理解を頂いたから皆さんにもそこんところだけにして頂きたいと思うのですけれども。太陽の周囲を地球が回って居る。太陽の周囲を地球が自転しながらそういう働きを持ちながらずうと太陽の周囲を回って居る。それが地球である。その地球のまた周囲をまた月が回って居る。それはもう一分一厘の間違いもない、いわゆる運行というですかね、運び行うと言う運行。
それこそ一分でも一厘でも間違いのない、そういう働きが宇宙の中にあっておる。ですから、例えば私共が住むこの地球という、地球もそういう間違いの無い働きをしている。その地球の中もやはり同じ働きがあっておると言う事を皆さんに聞いて頂いた。地球の中にもです、一分一厘間違いの無い働きがあっておる。間違いの無い働きがあっておるんだ。その一分一厘間違いの無いその働きをです、私共が受けて行くと言う事が、信心しておかげ受けると言う事である。
私今日は思うのですがね、身に余るおかげ、これは人間氏子がです、もう身に余るおかげを頂いていると言う事は、自分自身というものがよく分からなければ、身に余ると言う事になってこない。だから宗教のまぁ全てがそうだと思うのですけれども、教祖はそこんところを、めぐりの自覚に立つとか、我屑の子であるとかと言う様な、又は無学の百姓で何にも相分からずと言う様な風に御自身頂いておられる。私もいわゆる無学のいうなら商人(あきんど)としてです。
おかげを頂いてきて段々信心を少し分からせて貰い、手厚うさせて頂く様になって、何も出来ない私がです、私が今日この様なおかげを頂いて居ると言う事は身に余るおかげを頂いて居る。これ自分というものが分かれば分かる程それを感じるのである。これはんなら私だけではない。皆さんもどういう、ならば時点にあっても難儀な場合のところを通っておってもそれは身に余るおかげを受けておるという、そこから感謝の心、喜びの心というものが生まれて來る。
そういう喜びの心をもってしなければです、今日女がようなければとおっしゃるが。氏子がようなければという風に今日頂いておりますけれども、そういう喜びを持った氏子にならせて頂かねば、ようなければと、言う事になるのです。良い氏子というのはだから喜びの厚い氏子と言う事になる。それは又の言葉でいうと、身に余るおかげを頂いて、勿体ない、いわゆる有難い。
これだけ信心しよるとに、これ位のおかげしか頂かんと、いわゆるおかげをいつも、頂き足らん様な考えだから、それこそ宇宙の中のいわば、太陽とか地球とか月とか、例えば三つの事を例をとって、お話を聞いて頂いて、一分一厘の間違いのない運行と言う事は、働くと言う事である。天地の親神様の働きと、そういう働きを私共の身一つに、受けて行くと言う事が出来ない。これを受けるのは又良い氏子というのはです、感謝の心の厚いと言う事である。
その感謝の心を厚く頂かせて頂く為には、まず自分自身が分かれと言う事である。無学の百姓である私にと教祖は仰る。私は無学のきんどである私しがです。今朝方からいお夢を頂いたんですけれども、何か大きな家の様な屋台の様な、屋台店がありましょうおでんやら屋台店。そういうのを私やら家内やら子供やら、一家中でその引張って行っておるようなお夢を頂いた。それはまあいうならばあのう惨めな生活をしているという感じである。けれどもそのう非常にその何かこう有難い有難いという気持ちが強い。
まあそれぞれが有難いという感謝の心を持って楽しゅうそれを出させて頂いていると言った様なお夢であった。それがおかげを頂いて、とそれがどう言う事か私分からなかったけど、籾糠の中に一寸こう芽が出ておるから、これはあぁ惟は妙賀かなと思うてこうやって引っ張るとづるっと抜けるんです。それが何と筍です。成程これはあのう籾糠の中にあるとじゃから柔らこうて美味しかろうというて、皆んなでが一からげもある位の筍といいますか「へいご」といいますかね、を取っておる様な妄想の中のあるのです。
どう言う事であろうかと教えて頂いて、初めは一寸出ておるから、これは妙賀と思うておった。それが筍であったとこういう訳である。色々考えてから私はおかげを頂いて七人の子供に恵まれておるが、7人の子供がいうならば喜びだ、妙賀というのはその喜びと言う風に頂かねばならんと喜び。それから筍の子というのは私は素直な子と言う風に頂いたんですね。竹は素直とこういう。子は子供の子ですから、いわゆる私共のいうなら一番零落しきってもうその日その日がやっと生かさせて頂いておる。
一家中が屋台引っ張って何か商いでもしていると言った様なあの時代に、そのやはり信心の喜びと言うものを頂き合うておったと言う事。そこから一人一人子供が恵まれて子供が全部「竹の子」であった。皆んな素直であったと言う風に感じる。そんなら一人一人を見て、果してそのまあ、どれが良いの悪いのと甲乙つけ難いのですけれども、私がもうその時点時点で長男は長男、長女は長女。
どれでもあのうそれぞれの神様の働きというものを受けて居るのであるから、それをどんな場合であっても有り難く受けておると言う事である。その有り難く受けておるそのことが、いろんな場合に表れてきて、これは若先生じゃなかれにゃいけん、長女じゃなかれにゃいけん、光昭じゃなかれにゃいけん、幹三郎じゃなかれにゃいかん、栄四郎じゃなかれにゃいけんと言った様な場が、いわゆる私の手にも足にもならせて頂けれる働きというものをしてくれておる様な。
おかげというものはです、何処から生まれたかというとやはり喜びからだとこう思う。というて特別のなら技術が器量が良いとか、力があると言う事ではないけれども、もうとにかく身に余るおかげを受けておると言う事です。あぁあなたん所の子は頭がようなかじゃないですか、というたら出来方がようないというていわゆる悲観しなければならないと言う事もあるけれども、その頭が悪ければ悪い時点を有難く受けて居ると言う事です。私は頭が悪からお前はつまらんと言うた事もなければまた思う蛸ともない。
もうそれなりに神様の、いうなら今日の御理解でいうと一分一厘間違いのない働きがその様にあっておるのであるから、その時点時点を有難く頂いて行く。勿体ないという心で受けて行くという受け方がです、それぞれもやはり有難い道がついているだろう。それを中心の私自身も、いうならば女がようなければと言う所を人がようなければという。人がようなければというおかげを頂いておる所に、皆んながよい様なおかげになってくる。しかも一分一厘の間違いのない、あれが同じ様なばっかりではいかん。
様々な性格様々な器量、技術技量というものを身につけながら、一分一厘の間違いの無い運行の中におかげを蒙っておると言う事である。その中には大変、いうならば激しい雨風の時代もあった。春のような日もあった。様々なところを結局有難い、勿体ないという心で受けて行くところからです、ほううとに神様のお働きというか、例えば食生活と言う事に於てもです、その日その日がもう今日は食べるものがない。
明日はどうかという時であっても、その時点を有り難く受けて行く所から翌日からちゃんとそれなりの食べるものが与えられておったという事実。ですからその時点、毎日毎日食べることに追われるとか、何日になったらと言った様なものでなくて、その時点時点を有難く受けると言う事がです、私は人がようなければ出来なかったとこう思うのです。なら二十年前のそういう時代と二十何年後の今日というその有り難いと思う心と言うものは同んなじである。
それが例えば、一年一年信心をさして頂いておれば有難いことが多くなって來るという。おかげの中に今日の私の家がある。今日は私そう思う。何やらよう分からんけれども、お夢の中からそういうものを感じる。ておったらこのう今日の八十六節ですね、を頂きました。だから、結局女がようなければと言う事を、女だけが良かったってでけん。やっぱり種子もようなからなければならん。
してみると、人間がようなからなければならないと、言う風に今日は聞いて頂いた。しかもそれは天地の中にです、まぁ太陽と月と、地球という例をもって、もう一分一厘の間違いのない働きがあっておるのであるから、もう外にそういう働きがあっておるのであるから、その地球の中にもそういう働きがあってるんだ。世界中にそういうおかげというものは世界中「へんまん」しておる。一分一厘間違いのない働きの中に、そういう運行が行われておるのだ。
それを頂止めるのは何かというと、人がようなければ、地球上に住む本当の人間の幸はあり得ない。それを端的な言葉で教祖は和賀心とこう仰っとる。それは和賀心というのは、自分の都合の良い時だけ和賀心でなくて、その日その日の暮しにも事欠くことしの時であっても、そういう心の状態で居ればです、成程生かされて生きておるんだなあ、神様は恵続けておって下さるんだなあ。しかも何の働きも出来ない、私位の者の上にでもこの様なおかげを頂いてという、勿体ないというおかげが約束されておる。
それが年々歳々その有難いというものが多くなってきておる。私共がです何時の場合であっても、自分というものをギリギリに見極めさせて頂いたら、身に余るおかげを受けておるという事実を知らなければならない。その身に余るおかげを受けておるという心がです、間違いのない神様の働きと一緒になることが出来、間違いの無い働きをまた受け止めることが出来るというのであります。
ですからもうそれは、どう言う様な場合に直面致しましても、それは有り難い身に余るおかげとして受けて行くという生き方。そういう生き方の出来る人を、いうならよい氏子と言う事になるのじゃないでしょうか。だから身を持てる家を持てるいうならそういう、氏子が多くなればお国も保てる。そういう氏子が世界中に広がって行けば、世界が保てると言う事になる。
そこに初めて、天地金之神様の御安心があり、お喜びがあると言う事を思うのです。女は世界の田地、田地がようなければならんと仰せられるけれども、田地だけがようあってならぬ。やはり種子もようなければいけない。そこで種子も田地もようなければならんと言う事は、人がようなければならんと言う事である。私共は人のよい私達、まあそれをいうと馬鹿と阿呆で道を開けと教えておる訳です。」
又は一切を和賀心で受けて行く為にはいよいよ自分自身というものの、実態というか自分というものを見極めるところに無学の百姓と言う事になるであろう。無学の商人という自覚に立つ事が出来る、私位のものにそれは器量がよいとか悪いとか、力があるとかないとかと言う事は関わりの無い一様に神様は世界の氏子におかげをやってあるというそのおかげをです、私共がよい心、よい人よい人間がようなければという。
そういう心の状態で受けて見て行く時に、そういう信心を進めて行く限りです。一年一年有り難い事が多くなってくる。勿論一年一年有り難いというものの心が育てられていくと言う事になるのです。これを私共の数十年間の事を思うてみてもです、どういう難儀に合ってもその時点で一番有り難い、身に余るおかげとして受けておったと言う事なのです。それが今日に及んでおると言う事です。
どうぞ。